住吉神社 万葉歌碑
まずは「万葉集」について。
神亀三年(726)丙寅の秋、聖武天皇の印南野への行幸の折、笠朝臣金村の作る歌。
○名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海未通女 ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ ますらをの 情はなしに 手弱女の 思ひたわみて 徘徊り 吾はぞ恋ふる 舟楫を無み (万葉集 巻六・935)
[訳 魚住の船着き場から見える淡路島 松帆の浦に 朝凪のうちに海藻を刈り 夕凪のうちに藻塩を焼いている 海人の乙女がいると聞くが 見に行く手立てもないので 手弱女のように思いしおれて さまようばかりで 私は恋焦がれている 舟も楫もないので]
反歌二首
○玉藻刈る 海未通女とも 見に行かむ 船楫もがも 波高くとも(同936)
[訳 玉の藻を刈っている娘 見に行こう 船や楫が欲しい 波が高くても]
○往きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅の 船瀬の浜に しきる白波(同937)
[訳 往き帰りに いくら見ても見飽きることがない
魚住の船着き場の浜に しきりに打ち寄せる白波は](万葉歌碑)
笠金村は、山部赤人らとともに時の宮廷で活躍した万葉歌人である。
聖武天皇は、播磨灘と淡路島とを眼前に見るすぐれた景観の地で、邑美頓宮に七日ほど滞在されている。
●印南野とは印南・加古・明石三郡にまたがっていた野で、
現在の明石市から加古川市にかけての直線二十キロばかりの
海岸線をもつ臨海の土地である。
●邑美とは大海で、魚住町・大久保町あたりに広がっていた原野をさす。
●邑美頓宮の場所は邑美駅家跡地または西岡の天王神社と推定されている。
●「名寸隅」とは「魚住」のことである。「名寸」は「魚」の草体を誤って
二文字で伝えたものであるという説と、「なきすみ→なすみ→うおずみ」と
地名表記の音の変化を考える説がある。
そして「百人一首」の中の一首に
笠金村のこの歌を本歌取りした、藤原定家の和歌が納められています。
この一首は定家自らが代表作として
「百人一首」にも選びいれたほどであります。
来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
(新勅撰集恋3)
(百人一首97)
松帆の浦という淡路島の地名が登場しますが、
この定家の和歌の本歌(上記 万葉集巻六・935)は
ここ魚住の地で詠まれています。
他にも数多くの秀歌を詠んだ藤原定家。
そのたくさんの和歌の中から、なぜこの和歌を撰び
「百人一首」に遺したのでしょうか。
歌碑は池内艸舟書。
海の景色が映ります。